第6回

萬翠荘 北白川宮成久王妃 房子内親王御手植の碑  写真撮影筆者

 

梅山窯で 北白川宮成久王妃 房子内親王 (1890- 1974)右、梅野鶴市 
1951~3年頃と推認、 豊島吉博氏提供。

 

筆者は散歩中に萬翠荘( 重文、大正11 年 旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設)にとある発見をした。
そこには大正14 年11 月北白川宮成久王妃 房子内親王(きたしらかわのみやなるひさおうひ ふさこないしんのう、1890 – 1974、明治天皇の第7 皇女)は、この萬翠荘に招かれ松をお手植えされている。そしてその脇に2 羽の鶴が陶器で焼かれて置いてあった。
この鶴は、間違いなく鶴市の鶴だ。しかしこのお手植えの大正14 年の時にはこの鶴は存在していなかったのではないかと考えている。

のちにこの館の主で、県知事になる久松定武と鶴市の親交がはじまった頃(昭和26年ころ)に寄贈されたものではないかと推測される。梅野家に残る写真の中に戦後に梅山窯を訪なった同親王と鶴市の写真が残る。
このころ萬翠荘にお手植えの松の横に鶴を寄贈したと推測される。親王、鶴市とも60 代半ば。知事の久松定武は1951 年( 昭和26 年) に参議院議員を辞職し愛媛県知事に就いた。

ちなみに久松定武と柳宗悦は歳は違うが東京帝大の同期で親交が深かったことが、砥部焼の里に柳らを招いた発端になっていた。

 

豊島家。当時は梅野商会本店の玄関先に再現された『群鶴図』。
撮影年は特定できないが、おそらく昭和20年代半ば

 

都内にあった梅野商店の店舗。
2階に鶴の置物の姿が見えるがディティールが判然としない。
これを見ると戦前から鶴は生産されていたと思われる。

 

そして左の写真(上)、これは鶴市の家の玄関わきのもので撮影年は不詳だが、間違いなく『群鶴図屏風』を陶芸で再現しようとしたものだ。

明治23年生まれの鶴市は、四男二女をもうけた。苦戦しながらも砥部焼を世界に輸出し、台湾にも営業所を出した。

写真(下)は昭和10年代の梅野商会東京店の様子。よく見ると2階のテラス部分に鶴の置物の姿が見える。 豊島吉博氏提供

自分の名にある「鶴」を商標にし、まさに大きく飛躍を遂げ、推されて昭和18年砥部町の町長になる。
この時55歳。
しかしこれと前後するように長男、次男を立て続けに戦争で失う。
長男は中国戦線で、次男は南方戦線で「紙切れ一枚しか帰らなかった」と鶴市は悲しそうにそう語り続けていた。
昭和10年頃より製造をはじめていた「鶴」の置物を本格的に取り組み始めるのもこのころだ。坏土工場はこのために作ったのだ。
鶴市は2人の息子への鎮魂の思いに突き動かされていた。
「千羽の鶴を作る」
そして鶴市は、息子たちの死を悼む気持ちに加え、先の大戦で非業の死を遂げた者らへの深い慰霊の思いを強くしていた。

その思いを乗せた鶴は、飛ぶように売れた。戦後の梅野の窯元を立て直す起爆剤になった。やがて別の産地でも同じような鶴が現れたがこの芸術性の高い完成度は比類なかった。

 

豊島家に残る鶴の置物。
現在改装中のため完成後に設置予定。

 

インターネットや写真などの入手の困難な時代、鶴市は『群鶴図』を広げた。
円山応挙かどうかには興味が無かった。ただそのリアルな写実表現は鶴市の心を打った。
円山応挙以前の絵師らは、一族一派に伝わる画帳にあるモチーフを書き写していたと言われ、応挙は写生に力を入れ、活き活きとした動植物の姿を描き上げていた。
しかし次に大きな問題があった。「脚」の制作だ。重たい鶴の全身を支えるには、なにをどうしても頼りなかった。
「よし、鋳鉄で作ろう」戦後の傷も癒えかけ鉄の入手も若干ながら回復していた。とはいえ、陶芸職人らが鉄の鋳込みなどできようはずもない。
県内の鋳造鉄工職人に集まってもらった。工房の壁に広げて取りつけられた大きな屏風の下で、彼らと幾日も議論が交わされ、やがて試作品が出来上がって来た。
しかしどれもリアリティに欠けていた。
「鶴の身体がこれだけ精密にできるようになってるのに、この脚ではいかん。」
鶴市は部下の画工に
「この屏風の鶴の脚を浮き出させて、もっと彼ら(鉄工職人)に見せてやってくれ」
そういって金箔の上から墨を塗らせた。
「鶴の身体も浮き上がらせるためにもっと全体に塗れ」
そういうと画工たちは
「鶴のくちばしや羽根が消えてしまうのでそこはあとで書きたしたのでいいですか」
「もちろんじゃ」
よく見ると、屏風の下部には草や池や川が描かれていた。金箔に墨筆の跡が残る。
「この隅にある、文字も消えてしまいますよ」
「何と書いてる?」
「よく読めませんが應・・なんとか」
「構わん、消せ」
鶴の身体と脚は見事に浮かび上った。黒い背景の中で、まるで今にも本当に動き出しそうな鶴たちの姿が淡い照明の中に浮かび上がりひときわ印象的になった。
それまで金箔地の艶やかで華々しい屏風は、黒く妖しく、それでも凄まじい存在感で圧倒していた。

問題の鶴の脚部、再現性は完璧だ。
撮影:山田徹 2020年11月10日

 

「やはりこの鶴を書いたものはただ者ではないのだろうな」
ふと鶴市はそう思った。

鋳造鉄工職人らは、長い苦闘の末に鋳鉄に鉛を入れ、それはリアルに再現された。
「素晴らしい、よくやってくれた」
鶴市は最大のねぎらいの言葉を掛けた。
陶器の鶴に鋳鉄の脚を得て、鶴たちはまるでそこに生きているように群れていた。
その後この鶴の置物は、日本の庭園と言わず広く求められ、海外の日本庭園や個人宅の庭にも置かれるようになった。
砥部町を歩くとあちこちに、この鶴市の鶴がいたことだろう。なかには鷺もあるが、筆者はそれを眺めているとあの時代の彼らの姿が生き生きとよみがえって嬉しくなる。

消された落款は
「あれでいいのだ」
誰の作品かなどという些細なことに躍起になってる現代のわれわれに鶴市は、そう語りかけている。

 

註1:https://www.pref.ehime.jp/k70600/29miyautike.html
註2:https://goo.gl/maps/22cGDEjJPjqMjBPb8
註3:http://www.tougeizanmai.com/tabitetyou/027/rekisi-more.htm#column1
山に囲まれた砥部町は奈良・平安時代から全国に名を知られた伊予砥の産地でした。伊予砥を採掘した砥石山の一帯は「砥山」と呼ばれ、その名残が「砥部」の地名の由来となったといわれています。 奥に見える山並は西日本最高峰・石鎚山をはじめとする四国連峰です。 砥部焼の発祥地・伊予郡砥部町は山に囲まれた傾斜地の町です。
註4:「喪の家として御簾に代えて伊予簾が掛け渡され夏のに代えられたのも鈍色の几帳がそれに透いて見えるのが目には涼しかった。」源氏物語:36 柏木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「彼女は縁側にちかい伊予簾のかげに茵を敷いていて̶̶縁側には初夏ならば、すいすいと伸びた菖蒲が、たっぷり筒形の花いけに入れてあったり」
旧聞日本橋:18 神田附木店 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
註5:愛媛県生涯学習センター「わがふるさと愛媛学」を参照

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- 目次 -
連載「消えた落款の謎」(2021/3/8)
群鶴図屏風 2021/3/22
第1回 初めに 2021/3/23
第2回 2024/6/13
第2回 年表 2024/6/17
第3回 2024/6/17
第4回 2024/6/20
第5回 2024/6/21
第6回 (完) 2024/6/21

 

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