淡黄磁の花器、ラベルが残る。筆者撮影
鶴市は、淡黄磁の製造にのめり込んでいた。世界が評価するそれは製造は難しいのだが、それでも確実に実績を積み上げ町の発展に大きく貢献していった。
いっぽうで大きな悩みもあった。
ここで、少し磁器の焼成について書く。
磁器の焼き方には酸化焼成と、還元焼成とがある。白磁は、還元焼成だが、淡黄磁は、酸化焼成か中性の焼成である。還元焼成とは、燃料を不完全燃焼させ、一酸化炭素の中で焼くのである。
酸化焼成は酸素の十分ある状態で焼く。焼物の顔料としてよく使われる鉄だと鉄が酸化して赤茶っぽくなるのだが、それを還元させると鉄本来の色で青光りする。銅だと酸化させる緑っぽい緑青の色になり還元させると、あかがね色になる。では淡黄磁でいうと酸化焼成で焼くため銅は緑っぽくなり、鉄は酸化鉄となり赤茶色になるのだが微量だと全体に淡い黄色が出てくる。
酸化から中性の間で焼くと、淡黄磁の焼き味が出てくるのである。焼物で、鉄は非常に基本的な顔料だが、砥部焼の原料には微量ながら鉄を含んでおり、白磁といっても、純白ではなくて、薄く青みがかった砥部焼独特の色になっている。釉薬の鉄の含有量が1~2%だと青白磁の色になり、4%ぐらいであれば濃い青磁の色になり、8%まで入ると真っ黒の天目(てんもく)になり、12%を越えると鉄砂といって鉄さび色になる。とこのようにいろんな色が鉄で出てくるのである。註5
鶴市の時代の淡黄磁は、釉薬の調合に楢灰(ならばい)を使っており、この中に原料になるナラの木が栄養分としてとった鉄分が含まれていたので、こういう淡い黄色を出したと考えられている。
豊島家収蔵の『群鶴図屏風』部分。筆者撮影
これ以降はこれまでの事から筆者の私説部分を描いたものである。
この淡黄磁の製造に危機が迫っていた。
この磁器の焼成にはある偶然が絡んでいたのだが、科学的なデータが不足していた。熟練の陶芸家が綱渡りのように焼いていたにすぎない。
鶴一の三男・武之助は後に窯業試験場の設置にも奔走し科学的なエビデンスを得たいと考えた。
淡黄磁は、その不安定さが逆に付加価値を高めて行ったが、安定して生産できない点を「土が無い」「楢灰が上手く配合できない」など理由は少なくなかった。
淡黄磁のその上品でたおやかな肌は、奇跡的なものとして大評判を呼んだ。現存するものを手にして眺めるほどにその深い味わいと、あの時代に人々を熱狂させたであろう存在感に胸が熱くなる。なるほどシカゴ万博で出品物の中での最高位を受けただけのことはあるのだ。
そしてこれが砥部の町の発展にどれほど大きく寄与したかは計り知れない。
鶴市は事業規模が急拡大するなかで、この淡黄磁の生産の先行きに漠々たる不安を抱いていた。土が無く、高度な焼成技術は多くの失敗を生んだ。累々たる量の焼成にしくじった陶片が砥部の山の中に眠っていることだろう。
「技術は克服できるだろう、しかし問題はこれに適した土が無いのだ」
鶴市は呻吟した。
豊島家に残る「梅野商店」の戦前の包装紙。東京都内に2店舗、大阪・神戸などの店舗が記されている。梅野の商標の鶴は、この頃はまだ包装紙全体のデザインに較べれば稚拙である。
写真は当時の梅野商店の包装紙である。当時とはここでは太平洋戦争前までとしたい。
この包装紙には砥部本店、大阪店、神戸店、東京店、それに花瓶部。という5店舗が記されている。そして注目すべきは梅野商店の左右に描かれた鶴市のトレードマークともいえる「鶴」のグラフィックである。
この時点で鶴市は、あの『群鶴図屏風』に出会っていないことが分かる。つまりこの包装紙の鶴は昭和の初期でおそらく昭和4~5年のもとと推測してよい。一方で『群鶴図屏風』に出会うのは昭和9~10年頃だ。しかしエビデンスはない。
淡黄磁の減産が続く中で鶴市と武之助は、新たな製品の開発に没頭していた。そして白磁に呉須の現代の砥部焼を完成させていく。
これまでは直営店で販売を展開していたのだから、利益率は高かったろうがまだまだ圧倒的な広がりは見られなかった。そこに加えて太平洋戦争のインパクトは、大いなる転換を突きつけた。
戦後になってのちの人間国宝となる濱田庄司が、梅野を推薦し日本橋三越と取引が始まり、新たな中興の機を迎えるまで、まだしばらくの歳月がある。
そのころ鶴市は量産技術の確立のため鋳込み技術の開発に注心していた。昭和9年には坏土工場を建設するし、石膏の鋳型の工場も建てる。この頃だろう。
- 目次 - |
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
第4回 2024/6/20 |
第5回 2024/6/21 |
第6回 (完) 2024/6/21 |