カテゴリー: 消えた落款の謎
群鶴図屏風
豊島家に残る『群鶴図屏風』六曲一双
金箔の上に墨が塗られ独特の迫力がある。
右隻、左隻が判明しない。
サイズ:3600X1750 作者等不詳
撮影:赤松章(アセムスタジオ) 2019年11月26日
第1回 初めに
補修計画を立てるためにスタジオに搬入して撮影を行う。
場所:アセムスタジオ
撮影:山田徹 2019年11月26日
愛媛県伊予郡砥部町の豊島家は、「梅山窯」で知られる梅野精陶所のかつての商いの中心であり大正年間に建築された古い商家と出荷倉庫を擁する地域を代表する名家である。
大正期から昭和にかけ、梅山窯を大きく発展させたのが梅野鶴市・武之助の親子であり、鶴市はこの砥部の町長として砥部焼の振興に留まらず同町の発展に赫々たる実績を上げた。
この豊島家は梅野の本拠がさらに大きな場所に移転したあとに、鶴市の娘松子(大正15年~)が松山市の医師である豊島吉男と結婚し、豊島医院を開いた。
今回2020年の県道拡幅に伴い撤去・移設・改修のための計画と設計施工を担当するのが筆者である。
長く収集された松子の時代の品々に交じり、その父である鶴市の蒐集品も数多く在り、今回の事業ですべてを取りだし検証を加えた。
その中に不思議な一双の屏風を発見した。それは江戸時代中後期の作とみられる『群鶴図屏風』である。しかし不思議なことに落款が消されていた。
筆者はその消された落款の謎を追跡することとした。一部には強い私説の部分が多くあることを先ずもってお断りをしておく。
説をたてる前に、ふたつの都市伝説のような話題を挙げる。
①伊予市の船問屋で江戸前期から中期にかけて建てられた『宮内家』の隠居家の天井画が円山応挙である。(非公開)
②砥部の旧家である水車庄屋、坪内家に「円山応挙の絵があった」という地域の伝説。これは現町長も「聞いている」とコメントした。
この2点を謎解きのカギにしてみた。
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
第4回 2024/6/20 |
第5回 2024/6/21 |
第6回 (完) 2024/6/21 |
第2回
本書の主人公である梅野鶴市の名の残る「淡黄磁」に貼られた商標。
輸出品であったことが分かり梅野鶴市工場と記される。
撮影:山田徹 2020年10月26日
砥部は砥石の産地として、室町時代より京都に出荷していた。「砥部」という名は「砥石の部」という意で中央から、そう呼ばれたものだ。註3
また砥部よりも奥の久万高原町には平安時代から『御簾』が生産され宮廷で使われていて『源氏物語』などにも「いよす」と呼ばれて登場する。註4
節が長くテーパーの無い素直で繊細なもので、いまは産業としては廃れた。茶道具で「いよす」と呼ばれるものがあるが、これは小堀遠州が「いよすに似ている」ということでそう呼んだもので、ここでいう伊予産のすだれとは別のものだ。
砥石の産地からは、観潮井戸も現存する船問屋「宮内家」まで長いくだりだけの山道を辿る。筆者はここに一里塚のような道標があるだろうと探しているが、怪しいものはいくつか発見するも定かではない。この道は砥石などを積んだ重たい荷車が港まで、全てが下りなので楽々運べた。しかし帰途は長い登りなので重たいものは運びたくなかった。荷物と共に彼らは船に乗って京都まで行き現金を受け取り、しばらくは滞在し京の文化や風俗に触れ心を震わせたことだろう。名物や土産など、なにかと仕入れて(現金を渡した商人たちはいまの貿易にも似てバーターの取引や、さまざまなものを売り込んだはずである)そして帰砥の船には多くの京や大阪の品々が積まれていたと考えられる。
1635年(寛永12)伊予郡は松山藩領から大洲(おおず)藩領へ移された。大洲藩といえば坂本龍馬「海援隊」に蒸気船「いろは丸」を貸したことでも知られ、「いろは丸事件」は殊に有名である。この記述は略。
大洲藩は、地方の小藩にあって尊王の機運が高く蒸気船を保有していることにも驚くが、鳥羽・伏見の戦いに薩摩藩の新政府軍に派兵している。
ことほどさように、大洲藩は進取の気鋭に富み、殖産に力を入れ瀬戸内の海運や交易事業に長け、優れた文化を形成していっていた。
藩内には藩主の指示で始まった「砥部焼」ばかりか、五十崎の「天神和紙」、内子の「木盧」など、これらは世界に販路を広げてゆき、大きな富をもたらした。
現代もそうだが、海外進出は容易ではない。
筆者の母は実家が高知県の安芸郡田野町である。母の曽祖父に、三菱(と思われる)の一員としてインドに綿花の輸入に出かけた者がいた。明治前期、世界への進出は坂本龍馬以来の高知県や大洲の人らの夢だったのではないか。
明治22年に砥部で「淡黄磁」が誕生する。世の中に白磁、朝鮮の青磁に交じって淡いクリーム色の磁器は後の柳宗悦も驚嘆し絶賛する。
1893年明治26年の「シカゴ万博」に出品された「淡黄磁」は金賞に輝く。
翌年1894年には日清戦争が起きる。
アヘン戦争から続く清朝の混乱は中国製の白磁たちのヨーロッパへの輸出を滞らせ、この期に乗じ伊万里、有田などの陶磁器がヨーロッパに輸出され、砥部焼もそれに加わり大いに賑わいを見せた。これも前述の海運など開けた砥部の人々の機運と時代が交差した所以だろう。
現存する「坪内家」
水車小屋 砥石片を臼で曳いて、粉末にして水に溶かして陶土を作る。写真:資料『砥部』より転載
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
第4回 2024/6/20 |
第5回 2024/6/21 |
第6回 (完) 2024/6/21 |
第2回 年表
第3回
そのころ砥部の山本家に鶴市という子供が生まれる。1890年生まれだから日清戦争のときには4歳である。
家は料亭旅館を経営しており、のちに砥部を訪れた柳宗悦やバーナード・リーチらもそこに泊っている。
鶴市はまことに聡明で活発な子供で、10代の半ばになると地域の青年団のリーダーとなり、たぐいまれな人望を集めていった。
「淡黄磁」で世界にルートをつくり益々隆盛を極めた梅野家には、3人の女の子しかいなかったから、2代目の梅野春吉は、なんとかその鶴市を養子に貰いたいと山本家に頼み込んだ。
三男だった鶴市は婿養子に決まり、のちに「梅野鶴市」という名を残す人物が誕生する。
実はこの鶴市の「鶴」が大きく関わってくる。
また「近代的坏土工場」、ろくろ成形が主体の砥部に鋳込みしやすい坏土成形が、モノづくりの多様化を実現していく。説明は後述するがこのことによって、江戸時代から長く続いた[応挙の絵があった]と伝わる水車庄屋「坪内家」の衰退と、消され
た落款の謎が繋がっていくと考える。
この年表によれば明治元年には坪内家が水車で回した臼で曳いた陶石粉を(たぶんちゃんとした名前があると思われ)納めていた窯元が18軒とある。さらにさかのぼれば1848年嘉永元年「肥前より大水車移入」とある。砥部の郷に多くの水車がまわっていたことが窺える。
以下に出典データベース『えひめの記憶』を引用
梅野鶴市(1890~1969) 明治23年~昭和44年(1890~1969)砥部焼の陶業家・砥部町長。明治23年11月23日,下浮穴郡砥部村大南(現伊予郡砥部町)で山本秀五郎の三男に生まれた。 21歳のとき製陶業梅野家の女婿となり、陶磁器製造・販売に精励した。昭和9年伊予陶磁工業組合初代理事長に就任,組合の共同設備の推進,近代的坏土工場と電磁器・化学磁器製造工場の完成,陶石山採掘設備の新設,釉薬・石膏型工場の設置など砥部焼発展の基礎を築いた。昭和18年砥部町長に就任、21年11月まで戦中・終戦直後の困難な時期の町政を担当した。昭和30年4月原町村との合併による新生砥部町の初代町長に選任され, 36年3月まで町発展のため政治手腕を発揮した。 31年藍綬褒章,33年愛媛新聞賞,41年勲五等双光旭日章など数々の賞を受けた。昭和44年4月8日78歳で没し,陶祖の丘に銅像が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/89/view/14762 |
梅野武之助(1921~1999) 大正10年(1921年)12月6日大南に生まれ、戦後の不況期に砥部焼の再興に尽くし、中央から著名な工芸家を招いてデザイン指導を受け、白磁に呉須で代表される今日の砥部焼の基礎を築いた。 また、昭和59年(1984年)から砥部焼まつりを開催するなど、砥部焼の発展に尽力されたので、ここに顕彰する。(『梅野武之助翁顕彰碑』解説より)昭和56年(1981年) 紺綬褒章 昭和58年(1983年) 黄綬褒章 平成 7 年(1995年) 勲五等瑞宝章 平成13年(2001年) 名誉町民https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/89/view/14763 |
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
第4回 2024/6/20 |
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第6回 (完) 2024/6/21 |
第4回
豊島邸で収蔵されていた長洲城晋(1803-1866)書の屏風、江戸時代末期の砥部焼の里の活気が花鳥図を見るような美しさで迫ってくる。砥部町の文化財の指定を申請予定。 撮影:赤松章(アセムスタジオ)2020年12月10日
この屏風は長洲城晋(1803~1866)の書で同じく豊島家収蔵品である。この4行目に「幾舎轉釣廻」とあり多くの家々に水車が廻っていたさまが詠まれている。水車挽きがひとつの産業を為していたのであろう。「あの頃の陶器製作はばくちみたいなもので、大きな穴窯や登り窯で大量に焼くけど、上手くいかないことの方が多くて、それも年に2回くらいしか焼けない。そして上手く焼けて製品化して、売れてお金になったら坪内さんのところへ材料費の支払いに行く。上手く金が出来んかったら窯を閉めていなくなるんだそうよ」砥部町の方のお話し。なるほど、坪内家は大きなリスクと共にある砥部焼の発展に大きく寄与していたのだ。
昭和9年ころに鶴市は、自社に陶石を粉砕する機械を導入する。これにより大きな打撃を受けるであろう坪内家を、誠意をもって支援する。これが現代のビジネスのスタイルとは全く違い、鶴市の厚い人望はこうした事からもうかがえる。
資金協力の代りに、坪内家が交易で栄えたころに蒐集した美術品や書画を、水車庄屋を閉じても孫子の代まで困らない破格の金額で買い取る。
現実にはすでに「水車で挽く量では砥部焼は成り立たなくなっている。」ということもあった。砥部の町でも原料生産は工業化や電気の敷設などで、小さな産業革命を生んでいた。
さて鶴市が、詫びを入れた坪内家から、たくさんの書画骨董が運び込まれてきた。その中に今回のテーマたる『群鶴図屏風』そして長州城晋『書の屏風』があった。
鶴市は「鶴」には自身の名前のこともあって強い思いがあり、その後の梅野家には鶴をモチーフにしたさまざまなものが存在する。その契機をつくったのもこの時だったろう。書院の戸袋の引手まで鶴丸が驕られ、小さなものだが高い工芸品のレベルでる。また大量にある着物も当時から吉祥として描かれることの多い鶴だが、その収蔵の多さに目を瞠らされる。
鶴市の、この鶴に対する思い入れはさらに高まり、「わしの吉祥は、鶴じゃ。」そう言っていた。
愛媛県美術館で収蔵品の「松山藩御用絵師列伝」より筆者撮影豊田随可(1721-1792)作
2019 年暮れに愛媛県美術館で収蔵品の「松山藩御用絵師列伝」が開催されていた。
そのポスターの鶴が目に飛び込んできた筆者は、さっそく見学に赴いた。地方にも当然名だたる絵師がいる。江戸時代初期には各藩ごとに築城を競い合い、信長ではないが、天守や各殿に襖絵などを名のある絵師に描かせようと競い合った。
その美術展で、あることに気づいた。
松山藩の御用絵師の描いた鶴の脚が黒いのである。しかもベタ塗りの部分が多い。左頁写真の2 幅の掛軸は会場で撮影したもの、豊田随可(1721-1792)の作で、これは白と黒のコントラストをデザインとして成功させている。
また『群鶴図屏風』に描かれる脚は、この松山藩の絵師のものとは違うと言ってよい。
しかし円山四条派のものにも黒い足やグレーの脚もあるので描き別けた理由も機会を見て検討したい。
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
第4回 2024/6/20 |
第5回 2024/6/21 |
第6回 (完) 2024/6/21 |
第5回
淡黄磁の花器、ラベルが残る。筆者撮影
鶴市は、淡黄磁の製造にのめり込んでいた。世界が評価するそれは製造は難しいのだが、それでも確実に実績を積み上げ町の発展に大きく貢献していった。
いっぽうで大きな悩みもあった。
ここで、少し磁器の焼成について書く。
磁器の焼き方には酸化焼成と、還元焼成とがある。白磁は、還元焼成だが、淡黄磁は、酸化焼成か中性の焼成である。還元焼成とは、燃料を不完全燃焼させ、一酸化炭素の中で焼くのである。
酸化焼成は酸素の十分ある状態で焼く。焼物の顔料としてよく使われる鉄だと鉄が酸化して赤茶っぽくなるのだが、それを還元させると鉄本来の色で青光りする。銅だと酸化させる緑っぽい緑青の色になり還元させると、あかがね色になる。では淡黄磁でいうと酸化焼成で焼くため銅は緑っぽくなり、鉄は酸化鉄となり赤茶色になるのだが微量だと全体に淡い黄色が出てくる。
酸化から中性の間で焼くと、淡黄磁の焼き味が出てくるのである。焼物で、鉄は非常に基本的な顔料だが、砥部焼の原料には微量ながら鉄を含んでおり、白磁といっても、純白ではなくて、薄く青みがかった砥部焼独特の色になっている。釉薬の鉄の含有量が1~2%だと青白磁の色になり、4%ぐらいであれば濃い青磁の色になり、8%まで入ると真っ黒の天目(てんもく)になり、12%を越えると鉄砂といって鉄さび色になる。とこのようにいろんな色が鉄で出てくるのである。註5
鶴市の時代の淡黄磁は、釉薬の調合に楢灰(ならばい)を使っており、この中に原料になるナラの木が栄養分としてとった鉄分が含まれていたので、こういう淡い黄色を出したと考えられている。
豊島家収蔵の『群鶴図屏風』部分。筆者撮影
これ以降はこれまでの事から筆者の私説部分を描いたものである。
この淡黄磁の製造に危機が迫っていた。
この磁器の焼成にはある偶然が絡んでいたのだが、科学的なデータが不足していた。熟練の陶芸家が綱渡りのように焼いていたにすぎない。
鶴一の三男・武之助は後に窯業試験場の設置にも奔走し科学的なエビデンスを得たいと考えた。
淡黄磁は、その不安定さが逆に付加価値を高めて行ったが、安定して生産できない点を「土が無い」「楢灰が上手く配合できない」など理由は少なくなかった。
淡黄磁のその上品でたおやかな肌は、奇跡的なものとして大評判を呼んだ。現存するものを手にして眺めるほどにその深い味わいと、あの時代に人々を熱狂させたであろう存在感に胸が熱くなる。なるほどシカゴ万博で出品物の中での最高位を受けただけのことはあるのだ。
そしてこれが砥部の町の発展にどれほど大きく寄与したかは計り知れない。
鶴市は事業規模が急拡大するなかで、この淡黄磁の生産の先行きに漠々たる不安を抱いていた。土が無く、高度な焼成技術は多くの失敗を生んだ。累々たる量の焼成にしくじった陶片が砥部の山の中に眠っていることだろう。
「技術は克服できるだろう、しかし問題はこれに適した土が無いのだ」
鶴市は呻吟した。
豊島家に残る「梅野商店」の戦前の包装紙。東京都内に2店舗、大阪・神戸などの店舗が記されている。梅野の商標の鶴は、この頃はまだ包装紙全体のデザインに較べれば稚拙である。
写真は当時の梅野商店の包装紙である。当時とはここでは太平洋戦争前までとしたい。
この包装紙には砥部本店、大阪店、神戸店、東京店、それに花瓶部。という5店舗が記されている。そして注目すべきは梅野商店の左右に描かれた鶴市のトレードマークともいえる「鶴」のグラフィックである。
この時点で鶴市は、あの『群鶴図屏風』に出会っていないことが分かる。つまりこの包装紙の鶴は昭和の初期でおそらく昭和4~5年のもとと推測してよい。一方で『群鶴図屏風』に出会うのは昭和9~10年頃だ。しかしエビデンスはない。
淡黄磁の減産が続く中で鶴市と武之助は、新たな製品の開発に没頭していた。そして白磁に呉須の現代の砥部焼を完成させていく。
これまでは直営店で販売を展開していたのだから、利益率は高かったろうがまだまだ圧倒的な広がりは見られなかった。そこに加えて太平洋戦争のインパクトは、大いなる転換を突きつけた。
戦後になってのちの人間国宝となる濱田庄司が、梅野を推薦し日本橋三越と取引が始まり、新たな中興の機を迎えるまで、まだしばらくの歳月がある。
そのころ鶴市は量産技術の確立のため鋳込み技術の開発に注心していた。昭和9年には坏土工場を建設するし、石膏の鋳型の工場も建てる。この頃だろう。
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
第1回 初めに 2021/3/23 |
第2回 2024/6/13 |
第2回 年表 2024/6/17 |
第3回 2024/6/17 |
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第6回
萬翠荘 北白川宮成久王妃 房子内親王御手植の碑 写真撮影筆者
梅山窯で 北白川宮成久王妃 房子内親王 (1890- 1974)右、梅野鶴市
1951~3年頃と推認、 豊島吉博氏提供。
筆者は散歩中に萬翠荘( 重文、大正11 年 旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設)にとある発見をした。
そこには大正14 年11 月北白川宮成久王妃 房子内親王(きたしらかわのみやなるひさおうひ ふさこないしんのう、1890 – 1974、明治天皇の第7 皇女)は、この萬翠荘に招かれ松をお手植えされている。そしてその脇に2 羽の鶴が陶器で焼かれて置いてあった。
この鶴は、間違いなく鶴市の鶴だ。しかしこのお手植えの大正14 年の時にはこの鶴は存在していなかったのではないかと考えている。
のちにこの館の主で、県知事になる久松定武と鶴市の親交がはじまった頃(昭和26年ころ)に寄贈されたものではないかと推測される。梅野家に残る写真の中に戦後に梅山窯を訪なった同親王と鶴市の写真が残る。
このころ萬翠荘にお手植えの松の横に鶴を寄贈したと推測される。親王、鶴市とも60 代半ば。知事の久松定武は1951 年( 昭和26 年) に参議院議員を辞職し愛媛県知事に就いた。
ちなみに久松定武と柳宗悦は歳は違うが東京帝大の同期で親交が深かったことが、砥部焼の里に柳らを招いた発端になっていた。
豊島家。当時は梅野商会本店の玄関先に再現された『群鶴図』。
撮影年は特定できないが、おそらく昭和20年代半ば
都内にあった梅野商店の店舗。
2階に鶴の置物の姿が見えるがディティールが判然としない。
これを見ると戦前から鶴は生産されていたと思われる。
そして左の写真(上)、これは鶴市の家の玄関わきのもので撮影年は不詳だが、間違いなく『群鶴図屏風』を陶芸で再現しようとしたものだ。
明治23年生まれの鶴市は、四男二女をもうけた。苦戦しながらも砥部焼を世界に輸出し、台湾にも営業所を出した。
写真(下)は昭和10年代の梅野商会東京店の様子。よく見ると2階のテラス部分に鶴の置物の姿が見える。 豊島吉博氏提供
自分の名にある「鶴」を商標にし、まさに大きく飛躍を遂げ、推されて昭和18年砥部町の町長になる。
この時55歳。
しかしこれと前後するように長男、次男を立て続けに戦争で失う。
長男は中国戦線で、次男は南方戦線で「紙切れ一枚しか帰らなかった」と鶴市は悲しそうにそう語り続けていた。
昭和10年頃より製造をはじめていた「鶴」の置物を本格的に取り組み始めるのもこのころだ。坏土工場はこのために作ったのだ。
鶴市は2人の息子への鎮魂の思いに突き動かされていた。
「千羽の鶴を作る」
そして鶴市は、息子たちの死を悼む気持ちに加え、先の大戦で非業の死を遂げた者らへの深い慰霊の思いを強くしていた。
その思いを乗せた鶴は、飛ぶように売れた。戦後の梅野の窯元を立て直す起爆剤になった。やがて別の産地でも同じような鶴が現れたがこの芸術性の高い完成度は比類なかった。
豊島家に残る鶴の置物。
現在改装中のため完成後に設置予定。
インターネットや写真などの入手の困難な時代、鶴市は『群鶴図』を広げた。
円山応挙かどうかには興味が無かった。ただそのリアルな写実表現は鶴市の心を打った。
円山応挙以前の絵師らは、一族一派に伝わる画帳にあるモチーフを書き写していたと言われ、応挙は写生に力を入れ、活き活きとした動植物の姿を描き上げていた。
しかし次に大きな問題があった。「脚」の制作だ。重たい鶴の全身を支えるには、なにをどうしても頼りなかった。
「よし、鋳鉄で作ろう」戦後の傷も癒えかけ鉄の入手も若干ながら回復していた。とはいえ、陶芸職人らが鉄の鋳込みなどできようはずもない。
県内の鋳造鉄工職人に集まってもらった。工房の壁に広げて取りつけられた大きな屏風の下で、彼らと幾日も議論が交わされ、やがて試作品が出来上がって来た。
しかしどれもリアリティに欠けていた。
「鶴の身体がこれだけ精密にできるようになってるのに、この脚ではいかん。」
鶴市は部下の画工に
「この屏風の鶴の脚を浮き出させて、もっと彼ら(鉄工職人)に見せてやってくれ」
そういって金箔の上から墨を塗らせた。
「鶴の身体も浮き上がらせるためにもっと全体に塗れ」
そういうと画工たちは
「鶴のくちばしや羽根が消えてしまうのでそこはあとで書きたしたのでいいですか」
「もちろんじゃ」
よく見ると、屏風の下部には草や池や川が描かれていた。金箔に墨筆の跡が残る。
「この隅にある、文字も消えてしまいますよ」
「何と書いてる?」
「よく読めませんが應・・なんとか」
「構わん、消せ」
鶴の身体と脚は見事に浮かび上った。黒い背景の中で、まるで今にも本当に動き出しそうな鶴たちの姿が淡い照明の中に浮かび上がりひときわ印象的になった。
それまで金箔地の艶やかで華々しい屏風は、黒く妖しく、それでも凄まじい存在感で圧倒していた。
問題の鶴の脚部、再現性は完璧だ。
撮影:山田徹 2020年11月10日
「やはりこの鶴を書いたものはただ者ではないのだろうな」
ふと鶴市はそう思った。
鋳造鉄工職人らは、長い苦闘の末に鋳鉄に鉛を入れ、それはリアルに再現された。
「素晴らしい、よくやってくれた」
鶴市は最大のねぎらいの言葉を掛けた。
陶器の鶴に鋳鉄の脚を得て、鶴たちはまるでそこに生きているように群れていた。
その後この鶴の置物は、日本の庭園と言わず広く求められ、海外の日本庭園や個人宅の庭にも置かれるようになった。
砥部町を歩くとあちこちに、この鶴市の鶴がいたことだろう。なかには鷺もあるが、筆者はそれを眺めているとあの時代の彼らの姿が生き生きとよみがえって嬉しくなる。
消された落款は
「あれでいいのだ」
誰の作品かなどという些細なことに躍起になってる現代のわれわれに鶴市は、そう語りかけている。
註1:https://www.pref.ehime.jp/k70600/29miyautike.html
註2:https://goo.gl/maps/22cGDEjJPjqMjBPb8
註3:http://www.tougeizanmai.com/tabitetyou/027/rekisi-more.htm#column1
山に囲まれた砥部町は奈良・平安時代から全国に名を知られた伊予砥の産地でした。伊予砥を採掘した砥石山の一帯は「砥山」と呼ばれ、その名残が「砥部」の地名の由来となったといわれています。 奥に見える山並は西日本最高峰・石鎚山をはじめとする四国連峰です。 砥部焼の発祥地・伊予郡砥部町は山に囲まれた傾斜地の町です。
註4:「喪の家として御簾に代えて伊予簾が掛け渡され夏のに代えられたのも鈍色の几帳がそれに透いて見えるのが目には涼しかった。」源氏物語:36 柏木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「彼女は縁側にちかい伊予簾のかげに茵を敷いていて̶̶縁側には初夏ならば、すいすいと伸びた菖蒲が、たっぷり筒形の花いけに入れてあったり」
旧聞日本橋:18 神田附木店 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
註5:愛媛県生涯学習センター「わがふるさと愛媛学」を参照
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連載「消えた落款の謎」(2021/3/8) |
群鶴図屏風 2021/3/22 |
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