第2回

本書の主人公である梅野鶴市の名の残る「淡黄磁」に貼られた商標。
輸出品であったことが分かり梅野鶴市工場と記される。
撮影:山田徹 2020年10月26日

 

砥部は砥石の産地として、室町時代より京都に出荷していた。「砥部」という名は「砥石の部」という意で中央から、そう呼ばれたものだ。註3

また砥部よりも奥の久万高原町には平安時代から『御簾』が生産され宮廷で使われていて『源氏物語』などにも「いよす」と呼ばれて登場する。註4

節が長くテーパーの無い素直で繊細なもので、いまは産業としては廃れた。茶道具で「いよす」と呼ばれるものがあるが、これは小堀遠州が「いよすに似ている」ということでそう呼んだもので、ここでいう伊予産のすだれとは別のものだ。

砥石の産地からは、観潮井戸も現存する船問屋「宮内家」まで長いくだりだけの山道を辿る。筆者はここに一里塚のような道標があるだろうと探しているが、怪しいものはいくつか発見するも定かではない。この道は砥石などを積んだ重たい荷車が港まで、全てが下りなので楽々運べた。しかし帰途は長い登りなので重たいものは運びたくなかった。荷物と共に彼らは船に乗って京都まで行き現金を受け取り、しばらくは滞在し京の文化や風俗に触れ心を震わせたことだろう。名物や土産など、なにかと仕入れて(現金を渡した商人たちはいまの貿易にも似てバーターの取引や、さまざまなものを売り込んだはずである)そして帰砥の船には多くの京や大阪の品々が積まれていたと考えられる。

1635年(寛永12)伊予郡は松山藩領から大洲(おおず)藩領へ移された。大洲藩といえば坂本龍馬「海援隊」に蒸気船「いろは丸」を貸したことでも知られ、「いろは丸事件」は殊に有名である。この記述は略。

大洲藩は、地方の小藩にあって尊王の機運が高く蒸気船を保有していることにも驚くが、鳥羽・伏見の戦いに薩摩藩の新政府軍に派兵している。
ことほどさように、大洲藩は進取の気鋭に富み、殖産に力を入れ瀬戸内の海運や交易事業に長け、優れた文化を形成していっていた。
藩内には藩主の指示で始まった「砥部焼」ばかりか、五十崎の「天神和紙」、内子の「木盧」など、これらは世界に販路を広げてゆき、大きな富をもたらした。

現代もそうだが、海外進出は容易ではない。

筆者の母は実家が高知県の安芸郡田野町である。母の曽祖父に、三菱(と思われる)の一員としてインドに綿花の輸入に出かけた者がいた。明治前期、世界への進出は坂本龍馬以来の高知県や大洲の人らの夢だったのではないか。

明治22年に砥部で「淡黄磁」が誕生する。世の中に白磁、朝鮮の青磁に交じって淡いクリーム色の磁器は後の柳宗悦も驚嘆し絶賛する。
1893年明治26年の「シカゴ万博」に出品された「淡黄磁」は金賞に輝く。

翌年1894年には日清戦争が起きる。

アヘン戦争から続く清朝の混乱は中国製の白磁たちのヨーロッパへの輸出を滞らせ、この期に乗じ伊万里、有田などの陶磁器がヨーロッパに輸出され、砥部焼もそれに加わり大いに賑わいを見せた。これも前述の海運など開けた砥部の人々の機運と時代が交差した所以だろう。

現存する「坪内家」

 

水車小屋 砥石片を臼で曳いて、粉末にして水に溶かして陶土を作る。写真:資料『砥部』より転載

 

 

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- 目次 -
連載「消えた落款の謎」(2021/3/8)
群鶴図屏風 2021/3/22
第1回 初めに 2021/3/23
第2回 2024/6/13
第2回 年表 2024/6/17
第3回 2024/6/17
第4回 2024/6/20
第5回 2024/6/21
第6回 (完) 2024/6/21
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