第4回

豊島邸で収蔵されていた長洲城晋(1803-1866)書の屏風、江戸時代末期の砥部焼の里の活気が花鳥図を見るような美しさで迫ってくる。砥部町の文化財の指定を申請予定。 撮影:赤松章(アセムスタジオ)2020年12月10日

 

この屏風は長洲城晋(1803~1866)の書で同じく豊島家収蔵品である。この4行目に「幾舎轉釣廻」とあり多くの家々に水車が廻っていたさまが詠まれている。水車挽きがひとつの産業を為していたのであろう。「あの頃の陶器製作はばくちみたいなもので、大きな穴窯や登り窯で大量に焼くけど、上手くいかないことの方が多くて、それも年に2回くらいしか焼けない。そして上手く焼けて製品化して、売れてお金になったら坪内さんのところへ材料費の支払いに行く。上手く金が出来んかったら窯を閉めていなくなるんだそうよ」砥部町の方のお話し。なるほど、坪内家は大きなリスクと共にある砥部焼の発展に大きく寄与していたのだ。

昭和9年ころに鶴市は、自社に陶石を粉砕する機械を導入する。これにより大きな打撃を受けるであろう坪内家を、誠意をもって支援する。これが現代のビジネスのスタイルとは全く違い、鶴市の厚い人望はこうした事からもうかがえる。
資金協力の代りに、坪内家が交易で栄えたころに蒐集した美術品や書画を、水車庄屋を閉じても孫子の代まで困らない破格の金額で買い取る。

現実にはすでに「水車で挽く量では砥部焼は成り立たなくなっている。」ということもあった。砥部の町でも原料生産は工業化や電気の敷設などで、小さな産業革命を生んでいた。

さて鶴市が、詫びを入れた坪内家から、たくさんの書画骨董が運び込まれてきた。その中に今回のテーマたる『群鶴図屏風』そして長州城晋『書の屏風』があった。
鶴市は「鶴」には自身の名前のこともあって強い思いがあり、その後の梅野家には鶴をモチーフにしたさまざまなものが存在する。その契機をつくったのもこの時だったろう。書院の戸袋の引手まで鶴丸が驕られ、小さなものだが高い工芸品のレベルでる。また大量にある着物も当時から吉祥として描かれることの多い鶴だが、その収蔵の多さに目を瞠らされる。

鶴市の、この鶴に対する思い入れはさらに高まり、「わしの吉祥は、鶴じゃ。」そう言っていた。

愛媛県美術館で収蔵品の「松山藩御用絵師列伝」より筆者撮影豊田随可(1721-1792)作

 

2019 年暮れに愛媛県美術館で収蔵品の「松山藩御用絵師列伝」が開催されていた。
そのポスターの鶴が目に飛び込んできた筆者は、さっそく見学に赴いた。地方にも当然名だたる絵師がいる。江戸時代初期には各藩ごとに築城を競い合い、信長ではないが、天守や各殿に襖絵などを名のある絵師に描かせようと競い合った。

その美術展で、あることに気づいた。
松山藩の御用絵師の描いた鶴の脚が黒いのである。しかもベタ塗りの部分が多い。左頁写真の2 幅の掛軸は会場で撮影したもの、豊田随可(1721-1792)の作で、これは白と黒のコントラストをデザインとして成功させている。
また『群鶴図屏風』に描かれる脚は、この松山藩の絵師のものとは違うと言ってよい。
しかし円山四条派のものにも黒い足やグレーの脚もあるので描き別けた理由も機会を見て検討したい。

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- 目次 -
連載「消えた落款の謎」(2021/3/8)
群鶴図屏風 2021/3/22
第1回 初めに 2021/3/23
第2回 2024/6/13
第2回 年表 2024/6/17
第3回 2024/6/17
第4回 2024/6/20
第5回 2024/6/21
第6回 (完) 2024/6/21

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