第3回

そのころ砥部の山本家に鶴市という子供が生まれる。1890年生まれだから日清戦争のときには4歳である。

家は料亭旅館を経営しており、のちに砥部を訪れた柳宗悦やバーナード・リーチらもそこに泊っている。

鶴市はまことに聡明で活発な子供で、10代の半ばになると地域の青年団のリーダーとなり、たぐいまれな人望を集めていった。

「淡黄磁」で世界にルートをつくり益々隆盛を極めた梅野家には、3人の女の子しかいなかったから、2代目の梅野春吉は、なんとかその鶴市を養子に貰いたいと山本家に頼み込んだ。

三男だった鶴市は婿養子に決まり、のちに「梅野鶴市」という名を残す人物が誕生する。

実はこの鶴市の「鶴」が大きく関わってくる。

また「近代的坏土工場」、ろくろ成形が主体の砥部に鋳込みしやすい坏土成形が、モノづくりの多様化を実現していく。説明は後述するがこのことによって、江戸時代から長く続いた[応挙の絵があった]と伝わる水車庄屋「坪内家」の衰退と、消され
た落款の謎が繋がっていくと考える。

この年表によれば明治元年には坪内家が水車で回した臼で曳いた陶石粉を(たぶんちゃんとした名前があると思われ)納めていた窯元が18軒とある。さらにさかのぼれば1848年嘉永元年「肥前より大水車移入」とある。砥部の郷に多くの水車がまわっていたことが窺える。

 

以下に出典データベース『えひめの記憶』を引用

梅野鶴市(1890~1969)
明治23年~昭和44年(1890~1969)砥部焼の陶業家・砥部町長。明治23年11月23日,下浮穴郡砥部村大南(現伊予郡砥部町)で山本秀五郎の三男に生まれた。 21歳のとき製陶業梅野家の女婿となり、陶磁器製造・販売に精励した。昭和9年伊予陶磁工業組合初代理事長に就任,組合の共同設備の推進,近代的坏土工場と電磁器・化学磁器製造工場の完成,陶石山採掘設備の新設,釉薬・石膏型工場の設置など砥部焼発展の基礎を築いた。昭和18年砥部町長に就任、21年11月まで戦中・終戦直後の困難な時期の町政を担当した。昭和30年4月原町村との合併による新生砥部町の初代町長に選任され, 36年3月まで町発展のため政治手腕を発揮した。 31年藍綬褒章,33年愛媛新聞賞,41年勲五等双光旭日章など数々の賞を受けた。昭和44年4月8日78歳で没し,陶祖の丘に銅像が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/89/view/14762

 

梅野武之助(1921~1999)
大正10年(1921年)12月6日大南に生まれ、戦後の不況期に砥部焼の再興に尽くし、中央から著名な工芸家を招いてデザイン指導を受け、白磁に呉須で代表される今日の砥部焼の基礎を築いた。
また、昭和59年(1984年)から砥部焼まつりを開催するなど、砥部焼の発展に尽力されたので、ここに顕彰する。(『梅野武之助翁顕彰碑』解説より)昭和56年(1981年) 紺綬褒章
昭和58年(1983年) 黄綬褒章
平成 7 年(1995年) 勲五等瑞宝章
平成13年(2001年) 名誉町民https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/89/view/14763

 

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- 目次 -
連載「消えた落款の謎」(2021/3/8)
群鶴図屏風 2021/3/22
第1回 初めに 2021/3/23
第2回 2024/6/13
第2回 年表 2024/6/17
第3回 2024/6/17
第4回 2024/6/20
第5回 2024/6/21
第6回 (完) 2024/6/21

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