砥部むかしのくらし館とは

『砥部むかしのくらし館』へお運びいただきありがとうございます。
こちらの簡単な収蔵と展示に至った経緯などをご説明いたします。

この『砥部むかしのくらし館』には、およそ2万点を超える江戸時代末期から昭和中期までの生活の品々が収蔵されております。
通常の博物館の展示とは異なり収蔵品の多くをボリウムいっぱいに展示しております。

さてこの蒐集は一人の女性の手によって行われた類を見ないものです。
その人物は豊島松子です。
松子は大正15年5月6日 梅野鶴市・マスエの二女として愛媛県伊予郡砥部村の梅野家に生まれます。
梅野家は明治15年(1882年)に開窯し現存する最も古い窯元「梅野精陶所(梅山窯)」です。
この建築物は、梅野の商いの中心として二代目梅野春吉と三代目梅野鶴市の手によって、大正年間に相次いで建てられました。
大きくは母屋と蔵によって構成されていますが、2020年7月には、県道拡幅によって蔵は西に約20m、南に10mを曳家されました。
(曳家の写真)ほぼ建築当時の姿を留めています

そして、ここでは松子の父である梅野鶴市に触れておきたいと思います。

梅野鶴市
明治23年~昭和44年(1890~1969)砥部焼の陶業家・砥部町長。明治23年11月23日,下浮穴郡砥部村大南(現伊予郡砥部町)で山本秀五郎の三男に生まれた。 21歳のとき製陶業梅野家の女婿となり,陶磁器製造・販売に精励した。昭和9年伊予陶磁工業組合初代理事長に就任,組合の共同設備の推進,近代的坏土工場と電磁器・化学磁器製造工場の完成,陶石山採掘設備の新設,釉薬・石膏型工場の設置など砥部焼発展の基礎を築いた。昭和18年砥部町長に就任,21年11月まで戦中・終戦直後の困難な時期の町政を担当した。昭和30年4月原町村との合併による新生砥部町の初代町長に選任され, 36年3月まで町発展のため政治手腕を発揮した。31年藍綬褒章,33年愛媛新聞賞,41年勲五等双光旭日章など数々の賞を受けた。昭和44年4月8日78歳で没し,陶祖の丘に銅像が建てられた。
(『愛媛県史 人物』より)

母屋は本社営業所として、また全国に5拠点及び台湾に直営店を擁し、本社の横には出荷倉庫として蔵を建設しました。只今このパネルをご覧いただいております蔵が、その出荷倉庫です。中央部が吹き抜け、2階から商品を下す昇降装置が設けられていました。2階は無柱のトラス構造で希少な産業遺産です。ただいま国の登録有形文化財の申請をしております。

「梅野精陶所(梅山窯)」は2022年には開窯140年を迎えます。
本館は、その長い歴史と伝統の中から紡ぎだされた美意識に加え、松子が東京の女学校の寄宿生活中に出会った日本全国の民俗や文化が集められています。
なかでも「夜着」の圧倒的な収集量は日本一のものです。
戦後まもなく砥部焼の復興を願う梅野鶴市は、愛媛県知事久松定武(1899-1995)の帝大時代の同期生の柳宗悦らを砥部に招き「日本民藝運動」の思想を色濃く受けます。

(相関図)

こうした日本民藝運動に傾斜した松子は、梅野家をはじめ夫である医師の豊島吉男らの理解と支援を受け、女性特有の美意識による他に例を見ない蒐集活動を半世紀にわたり続けました。

ここにその全体像が披露できることとなりました。

本館は「母屋」と「蔵」で構成されており、一定のバリアフリーを設けましたが蔵の2階部分には階段のみになりますことをお詫びいたします。

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